Published: 2025-09-17 20:10

異端の名店のメニュー開発を追ったドキュメンタリー『ムガリッツ』──シェフが語る本物の芸術とリーダーシップ、AIのこと

スペイン・バスク地方にある世界屈指の“異端”レストラン「ムガリッツ」。シェフのアンドニ・ルイス・アドゥリス率いるチームのメニュー開発は、レストラン業界の常識と一線を画す。そのクリエイティブなメニュー開発の様子を追った映画『ムガリッツ』の公開に先駆け、シェフのアンドニにインタビューした。

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レストランと呼ぶには異質で、エンタテインメントという言葉では軽い。食べるモダンアートか、詩的晩餐か？ あまりにユニークで定義が難しいのが「ムガリッツ」だ。立地はサンセバスチャン市街からクルマを20分走らせた山の中。その辺鄙な場所でバスク人のアンドニ・ルイス・アドゥリスが1998年に開業し、2005年からはミシュランの2つ星を獲得し続けている。

2つ星のいわゆる高級レストランと想像して「ムガリッツ」を訪れると、想定外の料理に打ちのめされる人もいるはずだ。卓上には、一見食べものかすら分からないものも登場する。干し草が香るミルクを入れたシリコンの乳房、日本酒を染み込ませた食べられるハンカチ、花のサラダをのせた仮面……。

他店では絶対に供されることのない料理だが、「ムガリッツ」では1シーズン毎にメニューが変わるので、そのメニューを味わえるのは1シーズンのみ。その年に誕⽣した料理が翌年以降に提供されることはなく、シーズン毎に更新される。毎年11～4⽉の半年間は休業し、スタッフ総出でメニュー開発に専念する。

そんな「ムガリッツ」の世界にのめり込んだのが、『REC』シリーズなどで知られるスペイン人映画監督、パコ・プラサ。開発チームに密着し、舞台裏を記録し続けたのが本作『ムガリッツ』だ。映画の冒頭、アンドニはチームに告げる。

「今回のテーマは“目に見えぬもの”」

そこから、いまの時代では珍しいほどの時間をかけた試行錯誤が繰り広げられる。唯一無二のレストランの秘密を描いた本作の公開にあたり、アンドニ・ルイス・アドゥリスに話を聞いた。

――本作を最初に観終わった時の感想を教えてください。

これは簡単ではないドキュメンタリーだと感じました。なぜかと言うと、おそらくこれを観た多くの人が、初めの10分くらいで離脱する作品だと思ったからです。去るべき人は最初の10分で去っていく。つまり、このドキュメンタリーは「ムガリッツ」のメニューと同じで簡単ではない。誰にでも分かってもらえるようなハリウッドの大作映画とは違い、私はそれが非常に素晴らしいことだと思いました。

人々はハリウッド映画的なものに慣れてしまっています。すべてが咀嚼されていて、甘さも、酸っぱさも、塩辛さも分かりやすくなり、柔らかい状態で提供される。けれど、そうした世界は凡庸で、人を鈍感にしてしまうのです。誰もが楽しめるのではなく、観客を選ぶような作品は、創造性を養う意味で非常に大切。本物の芸術や文化のように、ドキュメンタリーも観る者に何かを求める作品でなければならないと思います。

あと、この作品には特有のリズム、間があるのですが、いまの“常に急いでいる世界”においては、その間を我慢できない人もいるでしょう。でも、その“間”があることで観客は深く考えることができるので、それも素晴らしいと感じました。すぐ先に進むのではなく、一度立ち止まって観察する習慣を取り戻させてくれるのです。

――従来のレストランを追った映画ではシェフが主役となりますが、『ムガリッツ』では違いました。想定外に、アンドニさんがあまり登場してこない作品でした。そのことについてはどう考えていますか？

率直に言って、非常に好ましいと思いました。なぜなら、30年かかってみんなで築いてきた「ムガリッツ」というプロジェクがとても誠実に描かれていたということだからです。シェフは、もう脇に置いていいんです。この映画は私についてではなく、「ムガリッツ」というプロジェクトを扱ったドキュメンタリーであり、タイトルもその通りです。確かに私の姿はあまり映っていないけれど、私の魂は常に映っています。

――開発チームの経歴がみなさんとてもユニークです。スタッフはどのようにして集まってくるのでしょうか？

「ムガリッツ」というのは、なぜか人を惹きつける磁石のような存在で、色々な人が集まってきます。普通の世間では生きやすくない人、少し変わった人、非常に個性豊かな人たちがいます。一般社会で居場所がない人や評価が低い人が、「ムガリッツ」の自由な空間では、むしろ特別な存在になれるのです。

例えばサーシャはベネズエラ出身の元ジャーナリストで、輝くような知性をもっています。料理の経験は全くなかったのですが、美食が大好きです。映画にはほとんど出てこなかったジョルディというメキシコ人の料理人も大切な存在で、彼は元々アメリカの大学で量子力学や宇宙工学を学んでいました。

私は常に成長したいと思っているのだけれど、シェフというのはちょっと狭量というか、物事を広くみず、自分の世界に閉じこもってしまう傾向があります。だから、周りに彼らのような色々な人間がいる方が、自分は成長できると思っています。

――アンドニさんの仕事を見て、雑誌の編集長の仕事にも少し似ていると思いました。それも、慕われていて、独自の世界観をきちんと共有できている編集長。そのリーダー像はどうやって実現できているのでしょうか？

“信頼”と“観察”の結果です。私は組織の責任者とは、足りない要素を補うことが仕事だと思っています。料理と同じで塩が足りなければ塩を足し、時には甘みを足し、時にはタンパク質を足す。見極めて補うのが責任者です。だから、彼らに任せます。

分け隔てなく全員に自由な働き方を与えているのは、それぞれの仕事を極めてほしいから。そのなかで仕事にコミットせず、自分の利益のためだけに在籍する人には、「出ていくのも自由だ」と告げなければなりません。人も観察しないといけない。これが私のリーダーシップです。私のやり方は、任せて観察することです。そして多くの場合、信頼を与えると、人は成長するのです。

写真や投稿から私好みのレストランの傾向を学び、私に合った店を薦めてくれたりします。それは素晴らしいことであり、立派な成果です。

でもこちらから何も聞いていないのに「あなたにはこれがいい」と継続的に薦められ、いわゆるエコーチェンバー現象を起こします。人間を同じ方向へと導き、同じ水たまりでバチャバチャ跳ねているような状態にしてしまう。イデオロギーでも何でも、自分と同じ考えの情報しか受け取らなくなっているということです。その結果、世界はどんどん狭まり、多様性が失われ、還元的になってしまいます。

だからその技術を使って、0.5%でもいいから正反対のものを薦めるアルゴリズムを作ってほしい。もし私があるタイプのレストランを好むとわかっているなら、正反対の店を推薦してほしい。クラシック音楽が好きだったらロックを薦め、自分が左派だったら右派の論調の記事を薦めてくる、そういうのを作ってほしいと思うのです。

私はAIというのは非常によいツールだとは思います。人を怠け者にするためではなく、人をよりよい存在にするためにこそ使えるはずだと。しかしまるでナイフのようで、美味しい料理を作ることもできれば、人を殺すこともできます。悪いのは道具そのものではなく、それをどう使うかにあるのです。AIも使う人次第なのです。

――ゲストとの関係のなかで、シェフとして嬉しくなるエピソードを教えてください。

私が好きなお客さんは、必ずしも料理の専門家ではありません。世界中の名だたるレストランを食べ歩いてきたか、ほとんど外食をしたことがないかも関係ありません。私にとって魅力的なのは、感受性が豊かな人です。

あらゆる人が来るので、そういう人も来るでしょう。非常に教養のある人も来るし、知識をもたない人も来ます。よい人もそうでない人も来ます。そんなことは私には関係なくて、感受性が豊かで、新しい経験に心を開ける人が来てくれれば嬉しいです。オペラに例えると分かりやすいでしょう。耳の聴こえない人でもオペラを聴きに行く人がいて、普通は「耳が聞こえないのにオペラに来るのは不自然」と思うかもしれないけれど、実際にはそういう人も存在して、世の中は本当に複雑なのです。だからプロフィールも、何を背負っているかも関係ありません。

――「ムガリッツ」はひとりで体験しに訪れても大丈夫でしょうか？ 誰かと一緒のほうが楽しめるようなイメージも持っていたのですが。

ふたつの異なる体験となるので、どちらでも大丈夫です。歩く時と似た感覚で、ひとりであれば自分のことを考えながら歩き、誰かと一緒であれば会話をしながら歩き、道の感じ方が変わってきます。ですから、ひとりで食事に来ても全くもって大丈夫。自分と向き合うのも美しいことで、誰かと分かち合うのも素敵なことです。

アンドニ・ルイス・アドゥリス／「ムガリッツ」オーナーシェフ。1971年生まれ、スペイン・サンセバスチャン出身。14歳で料理学校に入学し、16歳の時に「エル・ブジ」のフェラン・アドリアの存在に刺激を受け、本格的にシェフを志す。「エル・ブジ」「アルサック」「マルティン・ベラサテギ」などを経て、1998年に「ムガリッツ」を開業。2006年より「世界のベストレストラン50」では14年連続でトップ10にランクイン。2023年にはガストロノミー業界への功績が認められ、同アワードのアイコン賞を受賞。ミシュランガイドにおいては、2005年から現在まで2つ星を維持する。『Clorofilia』（2004）、『Puntos de Fuga』（2019）等、関連書籍も多数。2009年に誕生した「Basque Culinary Center」の創設パトロンのひとりでもある。2024年には「マドリッド・カリナリー・キャンパス（MACC）」にて、ガストロノミーを学ぶ初の大学院課程で教壇に立つ。

『ムガリッツ』 9月19日（金）より「シネスイッチ銀座」ほか順次公開 配給：ギャガ ©2024 TELEFONICA AUDIOVISUAL DIGITAL, S.L.U.

文・大石智子 編集・遠藤加奈（GQ）